2015年9月13日 日曜日 19:00:00 もうすぐ新宿「薩摩おごじょ」の女将・赤羽礼子さんが亡くなって10年ですね。
来月、10月16日で新宿「薩摩おごじょ」の女将・赤羽礼子さんが亡くなって10年になる。
10年前の、2005年12月号の「文藝春秋」に赤羽礼子さんの事が載っていたので紹介したい。
新宿「薩摩おごじょ」の女将・赤羽礼子は、長年、元特攻隊員が集まる店を経営し続けた。
1930年(昭和5年)、鹿児島知覧にある「富屋食堂」の女将・鳥浜トメの次女として生まれる。
1942年、知覧飛行場に少年飛行兵が配属されると、富屋は軍の指定食堂になり、少年兵や若い教官たちの憩いの場となった。
礼子は、訪れる少年兵と教官に「小母さん」と慕われる母親をみて少女時代を過ごした。
敗戦間近の45年4月、知覧は特攻隊員の出撃地となり、「小母さん」のいる富屋食堂は、出撃前の特攻隊員が束の間の安息を求める場になる。
トメは自宅の家財を売って身銭を切り、出撃前の特攻隊員たちに好きなものを食べさせた。
このとき知覧高等女学校の3年生だった礼子も特攻隊員の世話係に動員される。世話係の女学生たちは自らを「なでしこ隊」と呼ぶようになるが、前日まで明るく振舞っていた隊員たちが、出撃命令を受けるや緊張した面持ちに代わり、「しっかり勉強するんだよ」「ご両親を大切に」と論す様子に強く打たれた。
飛行場でグラマンの機銃掃射を受けた時、転んだ礼子を、特攻隊員たちが何人も身を挺して弾丸から守ってくれた。
戦後になってからも、母親のトメは旧飛行場の一角に棒杭を立ててお参りを続け、顕彰と鎮魂のための観音像建設を呼びかけた。ようやく知覧町によって観音像が建設されたのが55年。
この年、礼子は上京して東京服飾専門学校に入学する。
四年後に結婚したが、いつの間にか、かつての少年兵や特攻隊員が酒とツマミを持参して礼子の自宅を訪れるようになる。
鹿児島の知覧の「小母さん」は遠すぎるので、東京にいる礼子に会って昔を偲ぶためだった。
やがてその人数と回数が増えたため、早稲田に「薩摩おごじょ」の名で店を出す。さらに新宿に移ってからも「特攻隊員の集まる店」として繁盛した。客たちはこの店で久闊を叙し、また特攻隊員どうしの新たな出会いに深い縁を感じた。
2001年、航空機乗員養成所にいた経験を持つ音楽評論家の石井宏が筆を取り、礼子が語ってまとめた『ホタル帰る 特攻隊員と母トメと娘礼子』はベストセラーとなり、大勢の読者が特攻隊員の運命とトメの献身的行為に涙を流した。
いつも明るく客を迎えたが、知覧で機銃掃射されたときの恐怖は悪夢となって蘇り、礼子を悩まし続けていたという。(10月16日没 腎臓癌 享年75歳)
写真は『ホタル帰る』のモデル宮川少尉、そして感動の書『ホタル帰る』(赤羽礼子・石井宏著)
石原慎太郎が制作総指揮・脚本を手がけた『俺は、君のためにこそ死ににいく』にも礼子さんが登場している。
個人的には良い映画だと思っている。この映画を悪く言う輩は多いが、こいつらは、多分成りすまし日本人じゃないだろうか?。
そういえば、不貞反日映画監督の井筒和幸がこの映画を観もしないで酷評していたら、窪塚洋介に観てもいないのに批判しないで欲しい・・と反論されていたな。
そしてこの井筒和幸いう男、百田尚樹の『永遠の0』も観もしないで徹底的に批判していた・・やはり、不貞在日韓国朝鮮人の崔洋一といい井筒和幸は日本人のマインドとは180°違うようだ。
明日は命が無い同年代の若者に接した礼子さんの気持ちを考えると、居た堪れなく感じるのは俺だけじゃないはずだ、日本人なら誰でもそう思うはずだ。